しらすが獲れすぎた

今春、駿河湾(静岡県)でしらすが稀に見る豊漁だったそうだ。むしろ燃料やナフサが不足して供給に支障をきたすほど獲れすぎたらしい。

 

ーいやいやいや。

つっこみどころ満載なのだけど、とりあえず自分で獲っておいて獲「れた」と表現することとか、自分の意思で獲っておいて獲れ「すぎた」ってお前なんだそりゃと腰を抜かした。

 

そもそも日本は海洋資源管理については後進国で、獲ったら稚魚を放流すればいいとか、あるいは不漁の原因を海水温上昇とか黒潮の蛇行とか意味わかんない妄言で誤魔化し続けているので(黒潮がどうとかなんてドナルドトランプが「地球温暖化は存在しない」とか言い張ってるのと同じレベル)目も当てられない。魚なんて獲ったら減りますよ。あらゆるデータがそれを証明している。

なおのこと、しらすとはイワシの稚魚。イワシなんてその他のあらゆる魚の餌になるような魚であって、その稚魚ごっそり獲っちゃったら、何がどうなるかなんて誰でもわかるでしょう。

 

 

で この記事の本題は、왜 일본인들은 이렇게까지 자원으로써의 물고기의 미래에 무간심하냐. という考察です。

3つあるかなと思っていて

1 天然物信仰

これは簡単。天然物の方が味も品質も良い「本物」だという信仰が我々には染み付いている。たしかに魚は食べてるもので味が変わるので、昔の養殖 양식 魚は餌の品質が悪かったということもあっただろう、しかし今はもうそんなことはない。むしろ今は養殖魚の方が流通も品質も価格も安定している(と僕は思う)。

養殖<天然 と言う価値観は漁業に限定的な話であって、たとえば農業なら畑で育てたキャベツよりもその辺に自然に生えてるキャベツの方が美味しいなんてことはあり得ない(とみんな分かっている)し、畜産でも三元豚より野生の猪の方が美味しい訳がない(とみんな分かっている)。

ではなぜ海産物だけ天然信仰がいまだに幅を利かせているのか。それは2, 3で話すこととも関連しているけど、それ以外の大きな要因としては教育があるのではないかと思う。キャベツは畑 밭 で作ります、ぶたさんは牧場 목장 にいます、と教えるのに魚は海で泳いでいます헤엄치고 있어요、と教える。私たちが頂いているお魚は生け簀とかプールで育てているんですよ、と教えれば天然信仰も養殖への偏見も減っていくかもしれない。

 

2 漁業 어업 という産業 という誤解

以前別の記事でも書いたけど日本人は農耕民族だというのは誤謬であり、その証左として完全に狩猟採取である漁労が「産業」と位置付けられていることだ。

たとえば道端に落ちているドングリとかヨモギとか拾って売る商売を菜業(←造語です)と称して産業とみなすことができるか?いわゆる一次産業と呼ばれる仲間の林業だって何十年も先を見越して植林し、育った木を計画的に伐採しているのにだ。

育てることを何も考えずにただ海に出て網を投げ魚を拾ってくる商売を産業と定義してしまっていることが、海洋資源の有限性への危機感を麻痺させてしまっているのではないかと思う。

 

3 外界としての海

日本人は海を無限のものと見做していて、それは海が日本にとって外界(または自国と外の世界とを分かつ境界)であるからなのではないかという説。外の世界は無限に広がり、ゆえに海の資源も無限である、と。

これがたとえば小さな池 못 や湖 호수 だと話は変わる。水が汚れればすぐにわかるし、貝や魚を取りすぎればすぐに枯渇するし、外来種がはびこればすぐに原生種が淘汰される。도태된다. 

日本列島の外側に四方八方に広がるその姿のおかげで、海の有限性を感じ取れなくなってしまっているのではないかという話。

 

 

…と、いろいろ理由を挙げてはみたのだけど、けっきょくは日本人(の一部)が根強く持っている「大漁旗マインド」(←いま作った言葉)的な価値観が根底にあるのではないかと思いはじめた。

大漁旗マインドとは、一攫千金を狙って荒波に乗り出し、魚が獲れたら大漁旗を掲げて意気揚々とドヤ顔で港に戻り、稼いだあぶく銭を酒と女に溶かし尽くす。そんな生き様にロマンを感じるマインドのこと。「海の男」とかカッコイイ名前付けちゃってるけど、やってることはパチンコ中毒と変わらない…と言ったら言い過ぎだろうか。

(前に書いた、労働でレバレッジするものの5類型の話ともリンクするんだけど割愛)

なんか、ないですか大漁旗マインド。日本人の中に。

アンケート

淡々とした実務的な話。담담한 실무적인 이야기. 

 

韓国語だとアンケート調査のことを설문조사という。(これは前回記事みたくヒッカケではありません)

설문 = 設問

조사 = 調査

韓国語は日本語と比べて、外来語を単純にカタカナ化した言葉が少なく、ちゃんと(または無理矢理に)漢字の熟語にしてるケースが多いように思う。

(あと韓国語でクイズとか出すとき選択式のクイズを보기と言う)

 

 

 

からの余談。(日本の話です)

アンケートの結果、バスタオルを毎日洗う人の割合は60%程度だそうだ。

また、トイレで小便を座ってする男性の割合は70%程度だそうだ。

ほんとうか?おい。

 

アンケート調査の結果にビジネスの判断を委ねることの危険性は常に言及されていて、有名な(古典的な)例だとマクドナルドがアンケートをとった結果「サラダとかのヘルシーなメニューを食べたい」と言われたのでサラダを発売したら全く売れなかった、とか、アンケートの嘘は枚挙に頭がない。

なんでこうなるかというと当然人は「もしも」的な質問、損得や責任を伴わない質問には真実を答えないもので、そこには体面や道徳や規範や見栄が強いバイアスをかけるからだ。たとえば「人を殺すことは悪いことですか」という質問に本音で答えるサイコパスの人なんているわけないだろう。(あ、これはまた別の話か。こないだ話したやつだ。)

となると大なり小なり規範やモラルや見栄に関わる内容のアンケートには説得力がなくなるので、それをどう読み取るか、またはどう補正するかが大事になる。

まずは簡単な計算で言うと だいたい人間の半分から7割は平気で嘘をつく。と考えるといい。すると、バスタオルを毎日洗う人は18〜30%になり、小便を毎回座ってする男は21〜35%になる。まぁこんなもんでしょう。

次に自分がアンケートする場合には、「あなたは⚪︎⚪︎しますか」という質問とあわせ、「⚪︎⚪︎しない人はどれぐらいいると思いますか」という質問をする。後者の質問にはウソをつく必要がないため自分の体験や習慣を元にした意見が多少なりとも反映される。(つまり、バスタオルを毎日洗わない人は、洗う人より、想定のパーセントが高くなる。)この後者の質問の分散・標準偏差を取って前者の質問のそれと重ね合わせれば、そのズレから概ね前者の答えに含まれる嘘の度合いを推定することができる。

 

これでだいたい묵은지食べ尽くせた気がする。

아 피곤. 

 

 

ギリーバクス

今日は韓国語、ギリーバクスの話をします。

 

ギリーバクスとは英語でgilly box、玉手箱とか宝箱という意味。大事な宝物を誰かに贈ることから転じて、大絶賛・拍手喝采を送るという意味で使われる。

 

…というのは、真っ赤な嘘で

本当は

기립박수

기립 = 起立

박수 = 拍手

日本語で言うスタンディングオベーションのことを指します。

(gilly boxなんて単語はありません笑)

 

韓国語でもいまだに初耳の単語は多く、音のニュアンスだけで(いわゆる空耳アワー的に)誤解してしまうこともまだあって。ギリー云々もそのうちの一つでした。

昔は周波数 주파수 も、フランス語(Je passe)と勘違いしてて笑った思い出がある。

 

 

おまけ

以前 굿모닝FM테이입니다 グッドモーニングFMの番組内でも、「うちの子供がグッドモーニングFMを"ご両親のそばで"と聞き間違えてます笑」というお便りがあった。どういうことかというと

굿모닝 에프엠

부모님 옆에

だって。愛らしいね。

先日、2人の親戚を連れてソウルに行った。

親戚たちは海外旅行が初めてだったので こちらが色々な観光地にアテンドし、旅行全体をコーディネートした結果 とても楽しい旅行になった。

と思いきや結局は、

事前にインスタとTikTokで流れてきた場所に行き インスタ(略)と同じような写真を撮り イン(略)で紹介されていたコスメとお菓子とグッズを買い スーツケースをぱんぱんにし、彼らは楽しそうに帰国の途についた。

ちよっとだけ途方に暮れた。

 

 

テクノロジーが高度化し生活をアップデートしていくプロセスで 生きるための技術が「趣味」に転換していくケースはとても多い。

衣類をメンテナンスする技術はパッチワークや編み物という趣味になった。

料理、とくにパンやケーキ作りは完全にただの趣味だし、カレーをスパイスから作るなんて例を出すまでもなく料理はもはや趣味の領域に両足を踏み入れている(生きるための技術という意味を喪失している)。

文字を書くことすら、ボールペンや万年筆を買うこと使うことは趣味消費となった。

キャンプ、園芸、釣りなども過去を辿ればそれらは生きる技術に他ならなかった。

(語学と運転とクリエイティブは技術が趣味に転換する途上の最中にいると思う。)

趣味といえば聞こえはいいが、ようはわざわざまわりくどい面倒を自分で買ってプロセスに自己を投影する、はたから見れば「めんどくさい自己満足」にすぎないのだろう。

 

軽くディスってるように聞こえるかもしれないけど、ここからようやく本題。旅って、そうゆう「めんどくさい趣味」になっちゃったのかな。って話。

 

 

僕は旅が好きだ。

見たことのないものに出会う。嗅いだことのない臭いに包まれる。一言も分からない言葉に溢れる雑踏。そこには彼らの日常があるけど、そこに僕の居場所はない。その異邦人感。空気の肌触りも違う。景色の色も違う。便所の臭いも道のデコボコも路地裏の怖さも夜明けの日差しも空を飛ぶ鳥も違う。そんな違和感だらけの世界なんだけど、しつこいけど、そこは彼らにとってはただの日常で。カタコトの現地語とジェスチャーで意思疎通をして彼か彼女が微笑んだ時に自分の心に燈るもの。または店員からちょっとした差別的な嫌がらせを受けて鼻で笑われたときに自分の心に芽生えるもの。食べたことのない食事。飲んだことのない酒。または同じ食事でも同じ酒でもこの空間で食べる飲む味はこんなにもまるで違う味なんだと気づく体が震える感動。書ききれないけど旅ってそんな出来事だと思ってたし、そんな旅をとても いつくしんできた。

 

冬のソウルでマイナス15度とかの寒さの中オンドルが効いた店に入ってチゲすすりながらソジュ呑んだときソジュの味が初めてわかった。(気がした。)

冬のソウルで朝6時半とかまだ日が明けないときに外に出て迎えの車を待ってるときに少しずつ陽がさしてきて漢江とその向こうのビル群を朝日が染めた景色を見たとき「朝鮮」と言う言葉の意味が言葉でなく体に染み込んできた。

 

 

SNSがない時代に世界のいろんなところに行けて本当によかった。ほんとうによかった。

だけど旅って ただの「めんどくさい趣味」になっちゃったのかもしれない。もうこんなことも喋ってたらただの懐古厨になっちゃうんだろうな。あーつまんね。그래도 어쩔수가 없죠. 

 

韓国語使ってないけどたまにはソウルの話だしいいよね。괜찮겠죠. 

 

SNS ダメ、ゼッタイ

こちらもすげーー前のニュースを元にした記事なので完全に旬を逃したネタですが いつかは書きたかった話なので용서해주십시오. 다시 또 묵은지. 

 

ーーー

オーストラリアに続きインドネシアでも若者のSNS利用を法律で規制することにしたというニュースがあった。その理由は紛うことなく、SNSの依存的性質にある。

 

SNSに依存、わかりやすく言えば中毒になるのは何故か。たまたまSNSがスゲー中毒性を生んでしまったのか、はたまた人間が依存体質になってしまったのか…もちろん、決してそんなことはなく、SNSが「人を依存させるように設計されている」からであって、こんなことはわざわざ説明する必要もないくらい当たり前のことである。

依存性を生む設計というのは単純に言えば人がドーパミンを出す仕組みをハックした商品であり、それに相当するたぶん最大の産業が食品(とくにスナック、ファストフード、スイーツ)産業であり、それに続きIT(ゲーム、SNS、動画系サブスク等)が挙げられる。

アルコールやギャンブルに比べてもタチが悪いのは、一見それらが中毒性を持つとは考えられていず、またはそれらに依存するのは本人が悪いとみなされていることだろう。

しかし再三言うのだけれど、21世紀のマーケティングは人間の欲望と脳の報酬系を完全にハックしてしまった。そしていかに強い依存症をもたらすかが、マーケティング上の成功の指標になった。だって、人を依存させれば、当然 儲かるのだから。

企業と消費者のイタチごっこの果てにあったのは人間を廃人にするドラッグを手に入れた企業の勝利であった。

…と、ならないように、お大事に。

 

 

ーーー

おまけ

依存症マーケティングの餌食にならないためにはドーパミンの仕組みを理解することが第一歩だと思うので、釈迦に説法だとは思うけれど簡単にドーパミンの仕組みを説明しておきます。ドーパミンとは期待のホルモンと呼ばれます。

(簡略化してるのでご容赦)

 

たとえば青い錠剤があって、それを食べるとめっちゃ気持ち良くなるとします。

最初に青い錠剤を食べたときにはドーパミンは出ません。食べて気持ち良くなったときに快感のホルモン(エンドルフィンとか)が出るだけです。

その後、2度目に青い錠剤を見つけたとき。このときにドーパミンが出ます。「これ飲んだら気持ち良くなるじゃん」という期待に興奮する、それがドーパミンの効果です。ワクワクです。설레다です。しつこいようですが、薬をいざ飲んで気持ち良くなってるときはドーパミンは出ません、あくまで飲む前のワクワクがドーパミンです。

さて、あるときボタンを押すと錠剤が出る自販機を見つけました。青い錠剤も出ますが、ただの白いラムネも出ます。何度かボタンを押すとたまに青い錠剤が出ます。最初に青い薬が出たとき当然ながらドーパミンがドバドバ出ます。するとどうなるか。あとはボタンを押すたびにドーパミンが出ます。ワクワクが止まらない。何度でも何度でもボタンを押したくなる。これがドーパミンの効果です。

買い物でも食べ物でもセックスでもパチスロでも快感へ到達するプロセスのワクワクがドーパミンの快感であり、(到達したら終わりなので)ドーパミンの快感は無限に続きます。むしろ到達しない方がいい(または商売にとっては都合がいい)。

つまり自販機がSNSであり、ボタンがスクロールです。

 

잘자.

 

 

贅沢

贅沢、韓国語だと사치. 奢侈。

 

贅沢とは何かと言ったら多くの回答は…

高いものを買う。メニューの値段を見ないで注文する。必要のないものまで興味本位で買う。

何不自由ない暮らしをする。衣食住に娯楽に快楽。または自由な時間を過ごす。自分のランクより上のものを買う。て感じかな。

 

てことでここでもう一つ、贅沢の定義を足しておこう。それは自分の人生に無責任に生きられること自分の人生をネグレクトしても、それを補って余りある金と愛と安全に包まれていること

そんな時間が 얼마나 얼마나 얼마나 どれだけ贅沢な時間だったか。

 

おわり。

常駐

묵은지シリーズ、가치관의アプリを뇌に常駐させておくことの피로함についての話。

 

もういいかげん原稿が溜まりすぎたので、あまり推敲せずに垂れ流していこうと思います。

 

ーーー

突然ですが質問です。あなたは以下のうち、いくつが当てはまりますか?들어맞을까요?

 

・猫が可愛いのは当たり前のことだと分かってはいるが、心の底ではべつに愛着を持つ対象ではないと感じている。

・コーヒーの香りは良いものとみんな言うが、じつはあまり好きではない、むしろ嫌いだ。

・桜の花が綺麗だというのは皆が賛成することだが、じつは心の中ではまったくときめかない。

・尊敬する人物は誰かと聞かれれば、親や先人、スポーツ選手など誰かしら即答できるものだが、ほんとうは人を尊敬するという感覚がまったくわからない。

 

ぜんぶ当てはまるとしたら、それは僕です。なんちゃって笑。

 

ーーー

世の中には当然とされる価値観や当然必要とされる共感性があって、それが欠けていると社会性がない奴とみなされる。

極端な一例として「人を殺すことがなぜ悪いのか分からない」的なサイコパス的人格が語られることが多いけど、そんな極端な例に限らず、世の中には同調して当然とされる価値観がたくさんあって、人によってそれらのうち幾つかを備えていなかったりする。

本人は社会生活を通じて自分に欠けている価値観や共感性に気づくプロセスを経てきているので、そういった価値観を「あるべき規範」として学び、学んだフォーマットに則った"ふるまい"をするようになる。

 

ここでポイントになるのは、学んだふるまい というのは、まるでパソコンやスマホで所定のアプリを(ウイルスチェックソフト的なものを想像すると分かりやすい)起動し 常駐させているようなもので。OSに組み込まれている機能ではないので、脳のリソースを食い続ける。ようは、めっぽう疲れる。(よく、仮面をかぶる などと喩えるけど、被っただけで済む仮面とは違い、常に稼働してるアプリに喩えた方がよほど実態に近いと思い。)

 

一例としては、こんなイメージです。

知人:「あっ、猫ちゃんだ。かわいい〜♪」

自分(OS):(・・・・・・・・)

自分(常駐):(!猫話題 検出!対応プログラム稼働!)

自分(常駐):「ほんとだ、かわいいね〜(笑顔)」

知人:立ち止まって猫を見つめる

自分(常駐):(!対応プログラム検索…対応実施!)

自分(常駐):「ちょっと近づいてみようよ〜」

てな具合である。

 

ゆえに仕事でクタクタになったときや、酒に酔ったときなど、そのアプリが図らずも終了してしまうこともある。そんなときに人と会話したりするときは相当気をつけなくてはいけない。というか、人と話してはいけない。

 

けっきょく何が言いたいかというと、世間で共感性を求められる価値観の全てがOSに(またはBIOSに)組み込まれている人はなかなか居ないから、自分も一つや二つは後付け的にアプリを常駐している状態だ ということを自覚すると生きやすくなる(といいな)って話しで、ときにはアプリを落として頭をすっきりさせることも大事かもよ、って話でした。あなたが常駐させてるアプリは何ですか?

 

わかる人にはわかるし、分からない人には何のこと言ってんのかワケワカんない話になっちゃった。하하하.

나처럼 앱을 많이많이 실행시켜야 하는 분에게 공감과 동정을 담아.